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Channel: 生命論 (附高天王寺SSH)
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ラットの解剖 3A32

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結局私は、瓶の中のラットを前に大泣きしてしまった。ずっと心の準備をしてきたつもりだったのに、やっぱり死ぬのは辛かった。ジエチルエーテルの鼻を突く匂いや、飼育室のアンモニア臭、解剖している時のあの独特の香りが、今もふと蘇ってくる。その度に悲しくなる、という訳ではなく、少し不思議な感覚になる。
今回解剖実習をして、やはり私は「死」がすごく怖いのだと思った。以前手術室に入る機会があった時も、特に恐怖を感じたり、気分が悪くなったりしなかった。だけど今回の解剖実習はそれとは違っていた。2ヶ月育てて生きていたラットが、だんだん動けなくなって、もう二度と動かなくなった。力がなくなってだらんとした体を抱えたとき、私が殺したんだ、という実感がじわじわと湧いてきた。
でも、私が最も悲しかったのは、自分が殺してしまったことそれ自体ではない。このラットが生きていたところでどうなるのだろう、と考えてしまったことだった。たまに、なんのために生きるんだろう、と考える瞬間が誰にでもあると思う。これに対して私は私なりの答えを出している。生きることに理由はない、偶然が重なって結果的に存在しているのが今の私で、向かうべきところなどなく、ただ今を楽しむべきなのだと。なのに、ラットを飼育し始めてしばらくして、「どうせ死ぬんだったら何かにその命を活用すべき」という考えが浮かんだ。そのことを兄に意気揚々と語ったとき、兄が「活用されない命は無駄と考える、活用することが正しいというその思想が恐ろしすぎる」と言った。その言葉にはっとさせられた。一つは、私の「可哀想」という感覚には何か狂ったところがあったということ。もう一つは、誰だって''どうせ死ぬ''のだということ。
ラットだって、飼ってる猫だって、ハエだって、人間だって、いつか死ぬ。その死が有用だったとか、その人物は人類に多大な影響を与えたから偉大だとか、それらは人間の人間による人間のためだけの肩書きだ。
じゃあ何故解剖実習をしたのか。あまり釈然としない。確かに一生忘れられない経験だった。やはりこの経験から「考える」のが大切だということか。広島研修のあとの話し合いのとき、「皆考えることが大切だと言うけど、何か行動すべきだ」という意見が出た。私はどうするべきなのか?
将来私は医療系の職業に就きたいと思っている。理由は人を救いたいから。何故なら人の幸せが自分の幸せと考えているから。人を直接救うことができるなら、それが私の生きる意味になると思うから。救うとはどういうことか?私は痛みを取り除くことだと考えている。私にとって(誰でもそうかもしれないが)死ぬ前と死んだ後では、体は全く別のもの、つまり、前者は者で後者が物だ。生きているという、そのことこそ意味があって、死んでしまえば焼かれていくのだ。そこにある大きな違いは一つ、その「もの」が苦しむかどうかである。だから、ある患者さんが生きている限り、その人の苦しみを取り除いてあげなければならない。それが医療の役割だろう。
「者」が「物」になる瞬間。死の瞬間を私は初めて見た。今までの人生で、昆虫を除き死を見るのは初めてだった。それは一瞬だった。もちろん悲しいという気持ちはあったし、どうしてこの子達は殺されるのだろう、という疑問もあった。でもあの瞬間を見て確信出来た。「死」はありふれたものなのだと。不死身なんて有り得ないし、有り得たところで多くの人がそれを望まないのは、幸せだと感じないからだろう。人を救うことも、延命に過ぎない。だからこそ大切なのは、死んでしまうまでは、精一杯、誠意をもって関係を持っていくことなのではないかと思う。要するに、周りにいる人を大切にして生きていくこと、それが私が解剖実習で学んだことであり、これからも実践していくべきことだと思う。

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